瑞華院開祖 天誉了聞上人
三縁山瑞華院の歴史は明応元年(1492年)より始まります。
開祖「天譽了聞(てんよりょうもん)上人」は大本山三縁山増上寺の法主第五世を務められました。上人は、浄土宗開祖法然上人より数えて直系の十二祖にあたります。禅宗を学び諸国を遊学したのち増上寺第四世隆世光冏上人の教えを受けて、明応元年(1492年)八月~文亀二年(1502年)二月まで増上寺第五世法主になられました。同年般舟三昧の道場として瑞華院を開創し弟子の提誉浄門に住職を務めさせていました。
芝増上寺⼭内の瑞華院に代々伝わる
瑞華院開祖「天誉了聞上⼈像」
瑞華院蔵
瑞華院と増上寺
瑞華院は増上寺とともに現在の皇居付近である紀尾井町あたりに建てられていましたが、慶長三年(1598年)江戸城拡張工事の際に現在の港区芝へ増上寺とともに移転されました。江戸城に対し鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺を据えたと伝えられています、家康公から始まり徳川家の菩提寺として代々の恩恵を受けました。古絵図からも江戸時代の栄華を誇る当時の姿が偲ばれます。
増上寺で重要な役割を担った天誉了聞上人と瑞華院
江戸時代以降の瑞華院は増上寺、山内の子院という寺院の形態の為、決して門戸を広く開いた寺院ではありませんでしたが、その時々の高僧の修行場であると共に修行僧、書生の集う場や、檀家ではない様々な人々の相談場であり集会所でもある、憩いの場であったとも伝えられます。
また、鎮守熊野社の別当を兼帯し、別に本地堂の建立縁起を述され堂を建てたと伝えられます。江戸中期には美濃八幡藩主井上河内守の宿坊として、江戸後期には信濃飯田藩主堀大和守の宿坊とされていたと記述されています。文化三年(1806年)三月四日、江戸三大大火の一つといわれる文化の大火により類焼しました。この火事は芝・車町を火元に風にあおられ日本橋の殆どを焼失、その火は浅草まで燃え広がったといわれます。瑞華院はのちに再建されました。
時代が明治へと移り、増上寺も東京都の都市計画により、境内地の縮小を迫られ明治三十三年(1900年)七月七日、芝公園区画整理の為、瑞華院は麻布区廣尾、現在の港区南麻布の地へ移されました。
昭和二十年(1945年)太平洋戦争の東京大空襲により瑞華院本堂は焼失の憂き目に合いますが、本尊である阿弥陀如来像、並びに開山当時から残る天譽了聞像は奇跡的に戦火を免れ、現在も瑞華院に安置されています。瑞華院の住職は第八十世想誉明人上人。明応元年(1492年)開山から五百年余りの歴史を数えることとなります。
徳川家菩提寺と三つ葉葵の御紋
天正⼗⼋年(1590年)徳川家康公が江⼾⼊府の折、増上寺で⼣⾷をとってから⼣刻に江⼾城に⼊ったといわれていますが、⾨前で家康公の⾺が進まなくなり家康公が下⾺をして、時の増上寺法主源誉存応上⼈と⾔葉を交わしていると、この僧が三河の⼤樹寺で修⾏した僧であることがわかりました。さらに存応上⼈の号である「源誉」は、徳川家が源姓であるのに相応しいこと、寺の⼭号「三縁⼭」が「三河に縁のある」と読めることなど、縁起が良いとの話を始まりに、徳川家康公は⼤変この上⼈を崇敬しました。増上寺は代々徳川将軍家の菩提寺として定められ、増上寺は江⼾時代隆盛を極めることとなりました。増上寺には幾つかの⼦院がありそのひとつが瑞華院で、増上寺と同じく⼭号を「三縁⼭」とする由縁であります。この時の源誉存応上⼈は増上寺第⼗⼆世、瑞華院開祖天譽了聞上⼈は増上寺第五世法主、了聞上⼈から数えて七世のちの話であります。増上寺、瑞華院ともに徳川家の御紋三つ葉葵を冠するのはこの所以によるものです。
図出展:伊坂道子、初田亨「増上寺内寺院の職掌分化からみた建造物の形式について」より
瑞華院と増上寺
17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を超える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、とても大きな寺でした。
当時は、3000人以上の学僧のお念仏が、全山に鳴り響いていたと言われています。
増上寺の古地図に瑞華院が見られます。